玄向寺は、松本城主水野公代々の御尽力と庇護により、現在の伽藍が整えられ、基礎が築かれました。
水野家は江戸幕府を開いた徳川家康公の生母、於大の方(伝通院殿)が出られた家柄のため、江戸時代には譜代大名として重用されました。
水野家は幾つもの流れに分かれていますが、松本城主となる水野家は寛永19年(1642)7月に、水野忠清(ただきよ)公が三河吉田より7万石でお国替えし、松本城主となったことに始まります。
そして、水野忠清公・忠職(ただもと)公・忠直(ただなお)公・忠周(ただちか)公・忠幹(ただもと)公・忠恒(ただつね)公と、享保10年(1725)に至るまでの、六代84年間にわたり、松本藩を統治し、藩政の基礎を築き上げました。
二代目の忠職公は寛文8年(1668)6月26日、58歳で歿し、法名を「道樹院殿信譽上昌玄向大居士」と称しました。
三代目の忠直公は自然豊かで松本平が一望でき、松本城の天守閣まで望むことのできる当寺の裏山である女鳥羽山麓を選び、廟所を建立し、当寺を菩提寺と定めました。
それまで開山上人のお名前を取って、「清光寺」と称していましたが、この時に、二代目の忠職公の法名より取って、「上昌山道樹院玄向寺」と改めました。これが、玄向寺の名前のいわれです。
水野公廟所は、二代目の忠職公が歿した翌年の寛文9年(1669)には、その造営に着手しています。
この水野公廟所の入口には石鳥居があり、杉の木立の中の石段を登り、石畳を進んだ突き当たりに、玉垣に囲まれた九基の五輪塔があります。さらに、そこから北側には三代目の忠直公の生母の五輪塔とお子様方4人の墓石が並んでいます。
玉垣に囲まれた九基の五輪塔には、初代忠清公夫妻、二代忠職公夫妻、三代忠直公夫妻、四代忠周公夫妻、五代忠幹公の五代9人が御安置されております。
総高3メートルを超える大きな五輪塔が整然と並んでいるものは、松本地方では大変珍しく、このため、松本市特別史跡指定を受けています。
これらは300年以上前に建立されたお墓のため、以前は周辺の大木の根が張り、雪害・霜害等により、墓石である五輪塔の基礎部分やそれを取り囲む玉垣の損傷が大変激しく、倒壊の危険がありました。
このため、平成16年(2004)11月から17年(2005)2月までの4ヵ月間にわたり、大規模な復元改修工事を松本市と檀信徒のご支援・ご協力により行い、平成17年3月に開眼法要を、また平成19年(2007)6月に、観音堂・開運稲荷社の再建にあわせて、落慶法要を厳修いたしました。
これにより、創建当時の姿へとよみがえり、無事整備することができました。
玄向寺には廟所の他に、旧本堂東側に水野家代々の御位牌をお祀りした御霊屋(非公開)があります。